(撮影日1997年8月2日)
北海道ヒッチハイクのついでにねぶた祭りを見てきたのだ。いいだろう。
明智光秀は馬上に跨り「敵は本能寺にあり」天下はすでに我が手中にあり、諸 氏力を尽くして働け、功名手柄は身分の高下に係わらず重く申しつくるぞ。本 能寺を包囲した、明智勢は築地を乗り越え、木戸を破って乱入した。 信長は「光秀謀反」を聞くと寝巻姿のまま弓を取って射倒したが、やがて弓の 矢が切れてしまった。すぐさま信長は刀を取って応戦したが多勢に無勢でおさ れ、ついに最期の時が来たと知った。 信長は、本能寺の奥の居間に森蘭丸と共に、光秀の勇士安田作兵衛と最後の激 闘をくり広げたが、森蘭丸も作兵衛に討ち取られた。その間に、信長は本能寺 の一室に火を放って自害した。 「本能寺奥の居間の一場面」
「ねぶた愛好会」は地元会社制作のねぶたが多くなった大ねぶたの中で唯一(とおもう)、青森の人たちが資金を出し合って作っている。1000円のタオルを販売しているのでみんなも協力しよう。
今回一番綺麗に撮れた写真でもある。(壁紙用1024*768 200k)
日本武尊(やまとたける)は、第十二代景行(かげゆき)天皇の皇子であ る。命(みこと)は、十六歳で皇族将軍として第一線に立ち、西の熊襲武 (くまそたける)や出雲武(いづもたける)、東の荒すさぶ神や服従しない 者どもを討伐して活躍するが、その東征の帰途、伊勢の「野煩野(のぼの )」でぼっする。命、三十歳であった。 後に「野煩野」に陵(みささぎ)を造り埋葬したところ「白鳥」と化し、大 和へ飛んでいった。侍臣たちが棺を開くと屍(しかばね)はなかった。 従臣が白鳥を追っていくと大和の「琴弾原(ことひきはら)」に留まり、そ こに陵を造った。すると、白鳥はまた飛んで「古市村(ふるいちむら)」留 まり、そこに陵を造った。 これら三つの陵を「白鳥陵(しろとりみささぎ)」と名づけたという。
親の仇討ちの旅にでた時のこと、近江(おうみ)の国 三上山という山があ った。 三上山の奥に神様の社があって、毎年その神様は若い美しい娘のいる 家に白羽の矢を立てる。 その矢の立った家の娘は神様へ差し出さなければ災いがあるという。 その話を聞いた重太郎は、上から美しい娘の着物をかぶって娘のかわりに箱 にはいる。 夜はしんしんと更け丑満(うしみつ)の頃、ふたがサーッとあいた。 箱の中にいた重太郎は、飛び掛かってきたら一打にしてくれようとかぶって いた着物をバーッとはねのけ見上げると、体には真っ白な毛がはえ、赤い顔 をした狒狒という人を食う恐ろしい獣が飛び掛かってきた。 重太郎は刀の柄(つか)を両手でにぎって、突くとさすがの大狒狒も大地へ たおれたという。 剣の達人で力の強い豪傑として知られている岩見重太郎の武勇劇の一話である。
今から二千二百年程前、中国を統一した秦の始皇帝に仕えた方士(※)徐福 は、その命により不老不死の仙薬を求めることとなった。除福は、五穀の種 子・百種の工人・若い男女三千人を連れ、東海の蓬莱山(ほうらいさん)を めざして船出したのである。船は風浪に遭い、対馬海流に乗って日本海を北 上し、東日流(つがる)の尾崎(現・北津軽郡小泊村)に漂着した。結局、仙薬を見つけ出す事はできなかったが、この地に留り、多くの人々に農業・ 漁業・医療などの最先端技術を指導したという。小泊村尾崎神社には、熊野 大権現として祀られた徐福像が、現在では航海の神として秘蔵されている。 津軽半島に突起する断崖絶壁の神山・権現崎こそ蓬莱山だと上陸した秦の除 服。その姿に、郷土の新たなる可能性の発見と豊かな発展を祈るものである。
※ 方士=不老長生術を行う呪術師・医薬・天文・その他諸学に通じた学 者。神の力を持った人
中国は唐の時代。河中府永楽県(現在の山西省永楽鎮)の名門に生まれた呂洞賓 は、幼い頃から聡明であったが、その風貌は、異相であった。 剣の達人としても一流の技をそなえていた洞賓は、さらに進士の栄冠を得ようと科 挙(かきょ)に応じるのだが、二度も落第してしまう。 そうした頃、道士(どうし)、鐘離権(しょうりけん)と出会い”人の世は得ても 喜ぶには足らず、失うも悲しむに足らず、大きく覚(さ)めれば一つの大夢(たい む)である”ということを悟り仙人への道を選んだのであった。鐘離権から仙道の 極意をことごとく伝授された洞賓ではあるが、神仙となった後もあくまでも庶民の 中に身をおき、民衆と共に生きるのであった。あらゆる願いを叶えてくれる神仏として、また通仙として、中国では今なお多くの 人々に尊祟され、親しまれている。 ねぶたは、華陽巾(かようきん)をかぶり、手にした水瓶(すいびょう)に籠(こ)めていた龍(たつ)の子を解き放ち、遙(はる)か天空に遊ぶ翔龍と問答に興 じる呂洞賓の姿である。
鎌倉鶴ヶ岡八幡では今や板東諸国を平定した中納言清原武衡(きよはらたけひろ)が大勢の家来を従え関白宣下の式を挙げようとしていた。下座には頭主の加茂次郎 義綱(かものじろうよしつな)と嫁の桂の前を始め多くの者が捕らえられていた。武衡は成田五郎らに命じ義綱らを成敗しようとしていた。その時幕の彼方から「し ばらく、しばらく」という声がかかり、鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげ まさ)が現れ、武衡に対し、なぜ首を刎ねようとしているのか、誰の許しを得て金冠を被っているのかと、その横暴を責め、朝廷を護る宝刀雷丸(いかずちまる)と 探題の印形を返せと迫る。武衡は家来に命じ景政を捕らえようとしたが、景政は太 刀を抜いて一閃(いっせん)すると、家来の首は刎(は)ね飛んだ。景政は義綱たちをその場から逃がし武衡を尻目に勇ましく六方を踏んで花道を引き上げてゆく。成田屋、歌舞伎十八番のひとつである。
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